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管理人のRaRaです。
茨城県守谷市にてピアノ講師をしながら楽しい毎日を送っています。

「19th CLUB」(ナインティーンスクラブ)は楽器・ジャンルを問わず音楽を愛する方が集まって活動している音楽同人です。

茨城県守谷市・沖縄県・東京都で現在「アコースティックライブ」「公開リハーサル」「ジャズごっこ」などを行っています。
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    立川談志 現代落語論より 

    2011/05/24 16:21/Tue | ☆先人達の言葉☆ | CM(0) | TB(0)

    立川談志 現代落語論より


    落語は将来いったいどうなるのかね、とよく人に聞かれる。
    ~ 今の盛況は落語ブームではないし、むしろ軽演芸ブームというべきものだと思う。観客がおおぜいきて、楽しそうに笑ってはいるが、その笑いの内容をみた時は、まるで違っていて、噺を聞くのではなく、演芸を見て笑うといった人たちばかりのようであって落語に対する求め方がいまや違ってきているのだ。
    こういう現代にうけている人たちは、人気者であり、爆笑王なのだ。
    しかしそのような爆笑をともなうものの中から、いわゆるイキやオツさを求めるのが現代だというのなら、古典落語はまるでとり残された世界になってしまう。
    しかもその現代では、下品なイヤ味ある笑い本意の傾向はますます強くなり、若手噺家もそのようなことを演じる連中が多くなっている。本当の落語の未来は、どうなるかははなはだキケンだし、大衆という名に押しつぶされることになるかも知れない。
    極論すれば今の寄席の観客にとって落語の本質は必要ないのだし、この観客を楽しくさそいながら、本質的な笑いを聞かせようとする技術をもった噺家があまりにすくないのではないだろうか。
    つまり現代と大衆と古典をつなぎ合わせる落語家がいなければ落語はかならずダメになる。

    師匠や先輩に教わったとおりに噺を演じていたのでは、よほどその人がすばらしいテクニックを持っていなければダメで、もしそれを若くしてもっていたとしても、聞く方にとってはそれを教えた人たちの噺をきいている場合、そのよさが頭にこびりついているもので、いくら器用でも、それとまったく同じには演者が違うのだからできるわけはないし、そのまま演じていたのでは、すべてにおいて先代にかないっこはないのだ。だから、先代はよかった、そしてまたその先代はうまかったとなる。
    ~ 先代の名作に切り込んでいき、それに匹敵するような噺を演じるのが、演者の演出力であり創作力なので、その源は現代をどれだけ理解しているかという、いわゆる当人のセンスに負うところがおおい。
    ~ 教わった通りに演じる、という段階をへてからはじめて自分のできない技術をカバーし、自分の得意な技術をくわえ、特徴を生かし、ギャグを入れ、場合によっては人物の性格を変え、落げまで変えてみるくらいの演出力が必要で、これをその人なりに完成したとき、同じ噺でも、先代たちの残した作品とくらべることができうる。
    とくに現代という、テンポの違う、感覚のまるで昔と変わってしまった時代に、古典落語の豊かな笑いを残そうとするためには、演出力がなくてはとてもつとまらない。
    ~ ところが現状では、自分流にほんの部分的に直す若手はいても、自分のものにするまでの演出力をもつ若手はかずすくない。教わった噺を正当に、古典のセンスからはずれないようにこれを直すのは、よほど感覚的に落語を演じられる人か、現代における古典落語のあり方を分析できる人でないと、その噺はこわれてしまう。
    しかし、先代たちの作品の中には、ほとんど完璧で直しようのない、そのまま演じるのが最良の方法だというべきものも多くある。
    ~ わたしの性格としては負けを承知で挑戦したい。師匠のような現役バリバリの人からヒット作を教われる場合ならともかくとして、現代のテンポの違った昔噺を教わったとしても、それを現代に流れる古典として生まれ変わらせる時が、いまの若い落語家にとっては勝負になるのだと、わたしは確信している。

    芸人の最後の評価は「ナンデアル」と聞かれたら、「ソレハ愛デアル」と答える。
    「その人の持つ技芸の上手さ」「個性の楽しさ」それぞれ愛する部分はその人その人によって違うだろう。しかし、
    「オレはアイツが好きでね…….」という言葉には一言もない。かりにその人のほめる人が下手でも、けなす人の方がかえって上手くても、好きなのだから、また嫌いなのだからしかたがない。そしてその愛というものは、芸とはまた違った、昔流にいうならばその人の人柄というか、持つ個性というか、そのあたりからでてくることが多い。
    ~芸人のもつ魅力は愛される要素だ、といったが、しかしこの愛も、ただの好き嫌いではなく、やはり、内容を理解し、深さのある愛であってほしい。
    ~ 芸人には最終的には愛がものをいう。
    愛される芸人でなくてはならない。イヤ、もっといえば、愛されなくては、むしろ芸人とはいえないのだ。





    ※上記は1965年に刊行された立川談志師匠の現代落語論よりの抜粋である。
    古典を今に再現すると言う点ではクラッシック音楽と共通しており、そういった意味で大変興味深い論文である。



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    丸山 眞男 ~音楽という再現芸術~ 

    2011/03/11 22:49/Fri | ☆先人達の言葉☆ | CM(0) | TB(0)

    音楽という再現芸術 
      

    丸山 眞男
    ~1961年論文「思想史の考え方について」より~

     

    思想史家の仕事は、音楽における演奏家の仕事と似ているのではないでしょうか。音楽は通常、再現芸術であります。その点で美術や文学と異なった特色がある。つまり絵画ならば、作品というものにわれわれが直接当面することができます。ところが音楽となりますと、われわれがただ楽譜というものに直面してみても、そこから感興を得られるようなものではない。少なくとも普通はそうではない。演奏を通じてでなければ、作品はその芸術的な意味というものをわれわれに開陳してはくれません。
    ですから演奏家、いわば再現芸術家としての演奏家
    ~管弦楽の指揮者も当然含まれます~ というものは、作曲家ないし画家、文学者と違ってまったく自由に想像するということはできない。気まま勝手にファンタジーを飛翔させることはできません。彼らは彼らの演奏しようとする楽譜に基本的に制約されます。つまり楽譜の解釈を通じてその作曲家の魂を再現しなければいけない。そうして解釈するには、その作品の形式的な構造とか、これに先行する形式あるいはそれが受け継いだ形式、その中に盛られているイデー、あるいはその作品の時代的な背景といったことを無視することはできません。その意味で、どういう作曲家のどういう曲を演奏するのか、という、演奏の対象に拘束されております。
    けれども、さればといって演奏家にとっては、少なくとも芸術家としての演奏家にとっては、けっしてたんに楽譜を機械的に演奏に反映させること、楽譜を機械的に再現することが問題なのではない。そういう意味における楽譜の「客観的な」解釈というようなものは事実上ありえません。演奏が芸術的であるためには、必然に自分の責任による創造という契機を含みます。しかしそれは自分で勝手に創造するのではない。作曲家の作曲が第一次的な創造であるとすれば、演奏家の仕事はいわば追創造であります。あとから創造する~
    ナッハシェップフェン(nachschopfen)なのです。


    思想史のえがく思想というものはどこまでも過去の思想の再創造の所産であります。・・・・・・そこには一方歴史による被拘束性とともに、他方、歴史に対して自分が働きかける・・・・・・という両方向性があります。こうして歴史によって自分が拘束されることと、歴史的対象を自分が再構成することとの、いわば弁証法的な緊張を通じて過去の思想を再現する。このことが思想史の本来の課題であり、また面白さの源泉である、というふうに私は理解しております。



    ホロヴィッツ・アットホームより直筆ライナーノート 

    2011/01/22 03:53/Sat | ☆先人達の言葉☆ | CM(0) | TB(0)

    Notes by Vladimir Horowitz 

     

    Classical, Romantic, Modern, Neo-Romantic! These labels may be convenient for musicologists, but they have nothing to do with composing or performing. In fact, they may be more of a hindrance than a help in the education of young performers.  

    All music is the expression of feelings, and feelings do not change over the centuries. Style and form change, but not the basic human emotions. Purists would have us believe that music from the so-called Classical period should be performed with emotional restraint, while so-called Romantic music should be played with emotional freedom. Such advice has often resulted in exaggeration: overindulgent, uncontrolled performances of Romantic music and dry, sterile, dull performances of Classical music.

    As far as Mozart is concerned, we know from his letters that he showed great concern for musical expression: he continually criticized performers whose playing lacked freedom for their “mechanical execution” and the absence of “taste and feeling.” As for Beethoven, historical accounts describe his playing as very free and emotional -- the trademark of a Romantic. 

    All my life, every since I was a young man, I have considered music of all period romantic. There is, of course, an objective, intellectual component to music insofar as its formal structure is concerned; but when it comes to performance, what is required is not interpretation but a process of subjective re-creation.

    The notation of a composer is a mere skeleton that the performer must endow with flesh and blood, so that the music comes to life and speaks to an audience. The belief that going back to an Urtext will ensure a convincing performance is an illusion. An audience does not respond to intellectual concepts, only to the communication of feelings.

    A dictionary definition of “romantic” usually includes the following: “ Displaying or expressing love or strong affection; ardent, passionate, fervent.” I cannot name a single great composer of any period who did not possess these qualities. Isn’t, then, all music romantic? And shouldn’t the performer listen to his heart rather than to intellectual concepts of how to play Classical, Romantic or any other style of music?

    Of course, mastery implies control -- in music as well as in life. But control that is creative does not limit or restrain feelings or spontaneity. It is rather a seeting of standards, limits and boundaries in regard to taste, style and what is appropriate to each composer.  

    In order to become a truly re-creative performer, and not merely an instrumental wizard, one needs three ingredients in equal measure: a trained, disciplined mind, full of imagination; a free and giving heart; and a Gradus ad parnassum command of instrumental skill. Few musicians ever reach artistic heights with these ingredients evenly balanced. This is what I have been striving for all my life.

     


    ホロヴィッツ直筆のライナーノート

    (アルバム「ホロヴィッツ・アットホーム」より)

     

    「古典派」「ロマン派」「現代音楽」「新ロマン派」―― 評論家や研究者には便利な言葉かもしれないが、作曲家や演奏者にとっては意味をなさない概念である。むしろ、若い演奏家たちにとっては成長の妨げとさえなっている。

    す べての音楽は感情表現の手段であり、また感情というものは時代にかかわらず普遍的なものである。様式や形式は時代とともに変わっていくが、人間の根本的な 感情は変わらない。形式主義者は、古典派の音楽は感情を抑えて弾き、ロマン派の音楽は感情のままに弾くものだと主張するが、そうした考えが生みだしてきた のは、大げさで、自分勝手で、締まりのないロマン派の演奏や、干からびて想像力に乏しく、退屈な古典派の演奏だった。 

    モーツァルトの手紙を読むと、この作曲家が音楽的な表現力を重視していたことがわかる。表現技術や情感のない演奏家は、常にやり玉にあがっている。一方、ベートーヴェンの演奏は、自由闊達で情熱的であったことが、史実として伝えられている。まさにロマン的だったのである。 

    わたしは若い頃から、すべての時代のすべての音楽はロマンティックであると考えてきた。もちろん音楽の形式的な解釈に関しては、客観的で知的な要素も必要である。しかし、演奏の場で必要なのは、音楽を自分の心のままに再創造することであり、解釈ではない。 

    作 曲家の残した楽譜はあくまで音楽の骨格であって、演奏家はそこに血と肉を与え、生命をもって聴衆に語りかけるようにしなければならない。原典に忠実に再現 すれば説得力のある演奏ができると考えるのは大間違いである。聴衆は知的な概念にではなく、感情の呼びかけに感動するのである。 

    辞 書で「ロマンティック」という言葉をひくと「愛情や熱情を表に出すこと、またはそれを表現すること、熱烈、情熱的、熱心」といった意味が書かれている。私 の知りうる限り、歴史上、上記のようなロマン的資質を持たない偉大な作曲家は存在しない。ということはつまり、すべての音楽はロマンティックだということ ではないだろうか?とすれば演奏家に求められるのは、ロマン派はこう弾け、古典派はこう弾けといった識者たちの概念に耳を傾けることではなく、自分の心の 声に耳を澄ますことなのではないだろうか?

    もちろん、人生においても音楽においても、熟練とは抑制しコントロールすることだ。しかし、それが創造的な抑制であれば、感情の発露や即興を制限しない。むしろそれは個々の作曲家のセンスやスタイルや資質を明確にし、基準を示してくれる。

    単 なる楽器の名手ではなく音楽を再創造する真の演奏家になるためには、三つの要素が必要だ。それは、鍛えられた想像力豊かな精神、自由で広い心、そして地道 な修練によって培われた演奏技術の三つであり、これらを等しく併せ持つ芸術的高みに達した音楽家は稀である。この境地に至るために、私は生涯をかけて奮闘 努力してきたのである。 

    Transcreated by Minoru Okajima at Magic Desk, Inc.






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